Stone Oven Stay — Rorà

Rorà と Val Pellice

今も暮らしが息づく風景

Rorà と Val Pellice は、ガラスの向こうに保存された展示物ではありません。

採石場は今も稼働し、道は村や農場、高地の牧草地を結んでいます。ワルドー派の礼拝堂、カトリック教会、博物館、人が働き暮らす家、廃屋が、同じ風景の中にあります。

谷の下方にある Torre Pellice には、ワルドー派の主要な文化施設があります。Rorà にも、村の暮らし、仕事、地域の記憶を伝える博物館があります。歴史の道、採石場の道、山の小道、そして観光のために造られたのではない集落の日常の建築を通して、この地域を知ることができます。

この谷の意味は、風景と人の歴史との関係にあります。

古道が通る森。

耕された段々畑のそばで稼働する採石場。

迫害の痕跡のそばにある祈りの場所。

何世代もの人々を迎えてきた農家。

Stone Oven House も、そうした家の一つです。

その石、規模、人々をかくまってきた歴史、そして今の暮らしは、周囲の谷と切り離せません。

長い記憶を持つ谷

周囲の谷を知ると、Stone Oven House がよりよく見えてきます。

Val Pellice はピエモンテ西部、平野がコッティアン・アルプスへと立ち上がる場所にあります。Rorà はその小さな支谷の一つに位置し、森の斜面、牧草地、石の家、古道、稼働する採石場に囲まれています。

ここは観光地である前に、人々が暮らす山の共同体です。日々の仕事、家族の歴史、信仰の記憶、そして地形は、今も密接に結びついています。

屋根や壁、畑の境、噴水、段々畑、使われなくなった農業用の建物まで、至る所に石があります。地元の pietra di Luserna は後に重要な採石産業の基盤となりましたが、採掘が産業規模になるずっと前から、石はこの地の暮らしを形作っていました。19世紀に採石場の重要性が高まったことは、文書記録にも残っています。

Rorà で最も古い地区の一つ

1251年の文書には、Rorà が明確な領域の境界を持つ組織された共同体として登場します。その境界は1277年にさらに詳しく記され、その後も驚くほど安定して保たれてきました。

同じ歴史記録には、Vernarèa 地区に San Nicolao を祀る礼拝堂があったと記されています。歴史家は、現在の中心部に村が発展する以前、礼拝堂を囲む草の尾根に最初の集落があった可能性を指摘しています。

14世紀までには、San Nicolao 教会が Luserna の San Giovanni del Perno 修道院に属していたことが記録されています。後に1561年の Rorà 焼き討ちで破壊され、同じ場所には再建されませんでした。

Stone Oven House は、この歴史ある地区に立っています。

だからといって、現在の建物がそのまま13世紀に遡るわけではありません。現存する壁は、異なる時代に造られ、改変されました。言えるのは、この家が Rorà で最も古くから記録された地区の一つにあり、中世の共同体の起源と結びつく場所に隣接しているということです。

ワルドー派の谷

Val Pellice は、歴史的なワルドー派の谷の一つです。

ワルドー派の運動は中世ヨーロッパに始まり、既成の教会組織の外で何世紀も続きました。1532年、谷のワルドー派共同体はプロテスタントの宗教改革に加わりました。Rorà ではほぼ全体がこれに従い、宗教組織は地域の市民生活と深く結びつくようになりました。

その後の数世紀、谷は制限、迫害、暴力、亡命、帰還を繰り返し経験しました。

この歴史は、単純な一つの地域像を生んだわけではありません。留まる権利、良心の自由、脅威にさらされる人への共同体の責任、孤立と開放の難しい関係。繰り返し現れるこうした問いによって、文化が形作られました。

Rorà、1655年

Rorà の歴史を決定づける出来事の一つは、1655年の「ピエモンテの復活祭」として記憶される暴力の中で起きました。

サヴォイア軍が Val Pellice に入ると、農民で抵抗運動の指揮官でもあった Giosuè Gianavello に率いられた Rorà の人々は、熟知する地形を進んでくる、はるかに大きな軍勢を何度も撃退しました。

しかし抵抗をいつまでも続けることはできませんでした。村はついに制圧され、家や畑は破壊され、住民は殺害されるか捕らえられました。Gianavello は逃れ、亡命先からワルドー派の抵抗を続けました。

この物語が地域の記憶の中心にあり続けるのは、Rorà を英雄物語の舞台にするからではありません。存在する権利を脅かされたとき、ごく小さな共同体がどう応えたかを示しているからです。

石と仕事

この谷を形作ったのは、宗教対立だけでなく、仕事でもありました。

家族は急な斜面を耕し、家畜を飼い、森を管理し、周囲で手に入る素材で建物を造りました。村や家のコンパクトな形は、気候、限られた資源、使える土地を余さず活かす必要への答えでした。

採石は次第に重要になりました。pietra di Luserna と呼ばれる地元の片麻岩は、谷から遠く離れた場所でも屋根、階段、床、舗装に使われました。その採掘は Rorà の経済を変え、風景にも目に見える跡を残しました。

採石場の仕事は重労働であり、山の暮らしの経済的な厳しさをなくすものではありませんでした。19世紀には多くの家族が移住し、1870年にはまとまった人数がアルゼンチンへ渡りました。

そのため、Rorà は外の世界と無縁の場所ではありませんでした。石が谷を出て、人が去り、戻り、思想が国境を越え、共同体が自分たちよりはるかに大きな力に適応する。その歴史には、常に動きがありました。

避難の場所

ドイツによるイタリア占領中、Rorà は再び人々をかくまう場所になりました。

トリノから来た複数のユダヤ人家族が、地元の人々にかくまわれ、守られました。その中には彫刻家 Roberto Terracini、妻 Adele、娘 Lia がいました。

Terracini 一家は偽の身分で Vernarèa と呼ばれる農場、現在の Stone Oven House に暮らしました。

Terracini は潜伏中も描き続けました。作品には村の暮らしや、谷で活動するパルチザンの抵抗運動の人々が記録されています。一家が生き延びられたのは、周囲の人々がその存在を守り、裏切らなかったからです。

この物語は家のものであると同時に、Rorà のものでもあります。Vernarèa が避難所になれたのは、自分たちのもとに来た人々への責任を引き受ける人の、広いネットワークの中にあったからです。

Roberto Terracini が描いた Rorà
Roberto Terracini が描いた Rorà 近郊の岩山の風景